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生産性とは、インプット(投入量)に対するアウトプット(産出量)の割合であり、この割合が高くなるほど生産性が向上したということになります。この生産性向上への取組について、ヨーロッパ生産性本部は、1959年3月、生産性委員会ローマ会議報告において、次のとおり概念的な定義を行ないました。
生産性とは何よりも精神の態度であり、現存するものの進歩、あるいは不断の改善を目指す精神状態である。それは、今日は昨日よりもより良くなし得るという確信であり、さらに、明日は今日に優るという確信である。それは、現状がいかに優れたものと思われ、事実また優れていようとも、かかる現状に対する改善の意志である。
それはまた、条件の変化に経済社会生活を不断に適応させていくことであり、新しい技術と新しい方法を応用せんとする不断の努力であり、人間の進歩に対する信念である。
生産性運動とは、産業界労使、学識者の三者が協同して人間尊重を基本理念に我が国の生産性向上ならびに豊かな国民生活の実現を目指して取り組む国民運動です。
生産性運動は、ヨーロッパから始まりました。第二次大戦後、アメリカは西欧諸国の経済再建のため巨額の経済援助「ヨーロッパ復興計画(マーシャルプラン)」を実施し、その援助額は1948年~52年までの5年間で17ヵ国、102億ドルにも及びました。
イギリスは、経済再建のためにはアメリカ産業の高い生産性の秘密を解明・応用することが近道と判断し、民間による生産性センター(1948年英米生産性協議会、1952年英国生産性協議会)を設立しました。
フランス、西ドイツ、イタリアなど他の諸国もイギリスに倣い、アメリカの支援を受けながら次々と生産性センターを設立しました。また、これら生産性センターの情報交換、技術交流の計画実施本部とするため1953年、ヨーロッパ経済協力機構(OEEC:Organization for European Economic Cooperation)の下部機関としてヨーロッパ生産性本部(EPA:European Productivity Agency)が設立され、イギリス、西ドイツなど11ヵ国が参加しました。
アメリカから西ヨーロッパへの技術援助資金の大部分は、OEEC加盟国から米国へのチーム派遣に使われ、またアメリカから西ヨーロッパへの専門家派遣も行なわれました。こうした活動によって生産性向上のためには人間投資が最も重要であり、また労使間の制限的慣行の排除や自由な労働組合の育成が必要という知見が得られ、西ヨーロッパの生産性運動は、労働者の経営参加と労使協議制を軸に推進されることとなりました。
また、EPAは、1958年、「生産性運動は一時的な困難を救う応急手段ではなく、経済的・社会的進歩と密接につながる大きな効果を伴う長期の運動とみなすべき」という見解をまとめました。
なお、EPAは、1961年、OEECが経済協力開発機構(OECD:Organization for Economic Cooperation and Development)に改組されたときをもって解消されましたが、2005年7月現在でヨーロッパ諸国を含め5大陸67ヵ国に生産性機関が設置されており、地球規模で生産性運動が展開されています。
1951年、産業合理化審議会(通産大臣の諮問機関)が「日本生産性センター」の設立を政府に建議しましたが、朝鮮特需ブームのさなかで、その必要性が広く認められず、取り上げられませんでした。
しかし、1953年12月、アメリカ大使館のハロルドソンが、経済同友会に生産性機関の設置を勧めたことが契機となり、1954年3月、経済同友会、経団連、日経連、日商が「日本生産性増強委員会」(同年6月「日本生産性協議会」に改称)を設置。同年9月、日本生産性協議会、主要官庁(通産・外務・労働)代表、アメリカ大使館が集合し、生産性本部設立等の大綱を決定しました。通産省も日本生産性本部設立を省議決定し、1955年3月、わが国初の生産性機関として日本生産性本部(現在の公益財団法人日本生産性本部)が設立されました。
組織の基本フレームは、経営者、労働者、学識者の三者で構成する民間の中立機関でありましたが、発足時点では組合の参加が得られませんでした。しかし、1954年5月、日本生産性本部が「生産性運動に関する了解事項」(後述のいわゆる「生産性運動三原則」)を決定したことによって、同年9月以降続々と労働組合が参加し、名実ともに労使学の三者構成による機関となりました。
以降、地方においても生産性機関の設立が進み、1956年中部、関西、四国、九州、1957年中国、東北、1960年北海道と順次地方本部が設立されました。
北海道における生産性運動は、まず1956年10月、日本生産性本部の出先機関として札幌商工会議所内に開設された北海道事務所(所長:札商専務理事・桶谷又助氏)に始まります。
その4年後の1960年7月、札幌市の北海道自治会館において、約200名が参会する中、生産性北海道地方本部が全国7番目の地方本部として設立されました(1971年4月、北海道生産性本部に名称変更)。また、道地方本部の事務所は北海道経営者協会の仲介により北海道産業会館(札幌市中央区北1条西2丁目)の1室に開設され、1966年6月竣工した北海道経済センターへ移転するまでの約6年間、黎明期の北海道における生産性運動の拠点となりました。
その後、道内各地に7つの地区支部が設立され、1970年3月釧路、同年11月苫小牧、71年1月函館、同年2月旭川、北見、同年12月室蘭、1972年8月帯広(現十勝)の各地区支部が誕生しました。
生産性北海道地方本部設立総会
(1960年7月1日)
1954年5月、決定された生産性運動三原則は以下のとおりです。この三原則は、1944年4月、承認された国際労働機構(ILO)の目的に関する宣言(フィラデルフィア宣言)を強く意識して策定されました。
生産性の向上は、究極において雇用を拡大するものであるが、過渡的な過剰人員に対しては、国民経済的観点に立って能う限り配置転換その他により失業を防止するよう官民協力して適切な措置を講ずるものとする。
生産性向上のための具体的な方式については、各企業の実情に即し、労使が協力してこれを研究し、協議するものとする。
生産性向上の諸成果は、経営者、労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配されるものとする。
我が国の生産性運動は、西ヨーロッパと同様、アメリカへ視察団を派遣し、アメリカの競争力の源泉である科学的・合理的な経営技法を学ぶことから始まりました。
その第一陣として1955年、鉄鋼業視察団(富士製鉄・佐山団長)が派遣され、以降、1961年までの7年間で93チーム、延べ3,986人を派遣し、「昭和の遣唐使」と呼ばれました。
このように、我が国の生産性運動は、西欧から生産性運動の「哲学」を学び、米国から生産性を高めるための「経営技法」を学ぶ形で始まり、以降、それぞれの時代が抱える課題に応じて着実に運動を展開してまいりました。
北海道からの海外視察団の派遣
財団法人日本生産性本部が設立と同時に発足した海外視察団がもたらした成果のうち最も具体的なものは、これによって新しい組織が誕生したことです。すなわち調査団派遣10年間で「社団法人日本マーケティング協会」(1957年設立)、「日本インダストリアル・エンジニアリング協会」(1959年同)、「財団法人日本消費者協会」(1961年同)、「社団法人日本包装技術協会」(1963年同)の4つの組織が誕生しましたが、これら4つの協会は母胎である財団法人日本生産性本部の密接な提携団体として今日に至っています。
この4つの協会に関連して北海道生産性本部には、社団法人北海道消費者協会と社団法人日本包装技術協会・北海道支部の二つの提携団体があります。
社団法人北海道消費者協会は、1961年11月、120名の会員組織として設立されました。その初代会長に就任したのが、生産性北海道地方本部の初代会長でもあった藤波 収・北海道電力株式会社会長であり、事務局も本部に併設され、事務局長は本部事務局長が兼務しました。消費者問題は、「生産性向上の諸成果は、経営者、労働者、消費者に公正に配分する」と生産性三原則の中に謳われているとおり生産性運動に欠くことのできない重要なテーマでありました。1960年4月、初めての婦人チームとして消費者教育専門視察団が渡米したことで協会設立の機運が一気に盛り上がり、1961年9月、財団法人日本消費者協会が設立されました。北海道からもこの視察団に後藤まさ・本部理事(のち道消費者協会3代会長就任)が参加したことや本部の後押しなどもあり、現在の社団法人北海道消費者協会が設立されたのです。
一方、社団法人日本包装技術協会は、1956年、「第一次流通技術団」が、米国の包装技術の先進性を紹介し、次いで1958年、第一次包装専門視察団が米国における包装近代化の実情を視察したことなどがきっかけとなり1963年3月設立されました。社団法人日本包装技術協会北海道支部は、1967年4月に設立され、北海道生産性本部内に支部事務局を置き活動を続けていましたが、1980年、本部に委託した簡易な業務を除きいったん事業を協会本部に引き上げました。しかし、1985年、本部に対する委託範囲を拡大した上で、本部内に北海道支部を置き、以来事務局長を本部職員が兼務する形で再スタートを切り、今日に至っています。